皆さんお久しぶりです ふみです
生きております
前回の更新から大変お待んたせしました(;´Д`)
今回は500日の記念として内容も少し過激です
メンタル的にダメージもあると思います
大丈夫そうな人だけ見てください それなりに良い話も書いてあります
死にたいは死にたくないってコト
色々と書きたいコト
まだ書けないコトあったりして
動画のコンテンツも中々うまくいかず
撮影しては「う~ん」と悩み
完成に至らずの状態
毎日のtodoを考えては
youtubeを見たりネットで買い物をしたり
ダラダラと過ごす日々
一時期のやる気に満ちた時と違い
地震のショックからか
不眠も再発したり
重度の肩こりも再発
頭重感や締めつけ感は日替わりで消えず
なんかモヤモヤしてたこの3ヶ月
しれーっと乗り越えた梅雨
今言えるコトは
「生きてます」
というコト
というのも1年前の7月28日
私は人生で初めて自殺未遂のようなコトをしていました
7月中旬~8月迄
どうやって死ぬか
どうせ死ぬなら
親近者や世の中にどうやって傷跡を残そうか
道連れにしてやろう等と完全に荒んだ心でした
毎晩寝れずに近所を徘徊し死に場所を探していました
今思えばこの自殺未遂のような行為は
もしかすると最後の訴えだったのかもしれません
いっぱいいっぱいでした、、、
よくTVで家族が居ながら自殺した人をバカにしていた過去の自分
この時はその自殺者の気持ちがよく分かりました
不思議と今まで支えてくれた人を思い出しては
号泣し 減薬断薬で知り合った人たちの言葉を
見返しては崩れ落ちるように
その場に泣き崩れ それは本当に精神的な生き地獄そのものでした
(完全にイってる私 2015.07.29)
遺書も大量にあります(笑
その頃のブログを見ても
心に余裕が無かったり
自傷用のナイフを大量に買ったり
行動が異常でした
1年前の記事に角島へ行ったり
筋トレの写真をあげていますが
完全に払拭するための暴走でした
目に写るものが悲しく
耳に聴こえるものが虚しく
体で感じる全てが虚無感でいっぱいでした
体重も60kg程度
社会人になって一番落ちきっていました
体脂肪は6% エグザイルか、、、
ブログには詳細を書いてませんでしたが
そんな私を心配してか
メッセージやメールが多かったのを今でも覚えています
本当にありがとうございました
私がどうして自殺を踏みとどまり
今こうして生きているか
そのきっかけは
母でした
何も出来ないけど側に居てくれた母
去年の7月
私は窮地に立たされていました
離脱症状もそこそこに回復の兆しもあっただろう春も終わりの頃
私の不注意による仕事のトラブルでとある企業から賠償請求をされ
数千万にも及ぶ賠償金を背負うコトになりました
(実際に今も返済中です)
その他にも数百万単位での訴訟案件もあったり
本当に終わりを迎えていました
離脱症状というフィジカルの不調に
更なる重石が乗っかってきたのです
治りかけていた不眠は大きく崩れ
毎晩泣いては喚き散らすようになり
自暴自棄な行動、、、とはいっても不調により
大したことが出来ない
ストレスはMAX
ただただ全てが終わっていくのを
この最悪な体調で迎えるしかありませんでした
ここで書くコトではありませんが
ついでなので書いておきますと
昨年の4月に私は離婚しました
付き合い始めてから15年連れ添った妻と
2人の娘と離れて暮らすことになったのです
去年の8月に娘の誕生日に会って以来
妻とも娘とも会っていません
パニック症を発症してから9年
当初は支えになっていた妻家族も
減薬断薬というプロセスにおいて
「心配掛けたくない」
「妻のために、、、再起したい」
「子どものために強いパパを取り戻したい」
体の衰弱 精神の病みに伴い
それはモチベーションからプレッシャーへと変わっていき
更に自分を追い込んでいってました
※離婚の直接の原因は離脱症状ではありません
そんな私が今でも生を選択し
こうしてブログが書けているのは
ある時の母の一言でした
賠償金の決定を受けにいく前に
母と知人と食事に行った帰り道
母と二人っきりになりぼそっと言った
「俺もうダメかもわからん お母さんに内緒で自殺するかもしれん 怖いとよ」
楽しいはずの外食なのに
最悪でした
涙も出ませんでした
もう泣く気力もありません
そんな私に
「頑張って産んだっちゃけん 死なんどって」
その時の私の頭には何も響きませんでした
毎日毎日
どうやって今日は生きよう
どうやって死なずに暮らそう
そんなコトを考えながら過ごしていた私には
母の言葉は届きませんでした
そして
母が作った味のしない朝食を食べ
空元気で日中を過ごし
夜になればナイフ片手に徘徊
そんな日が2週間程続いていました
母は知らずに私の側に居ました
家に帰れば母は居ました
それが私には辛かったのでしょう
徘徊はきっとそれが理由です
母に一番に見つかっては嫌だったのです
私の性格からして死んだあとのコトを考えました
母に一番に見つかるのは嫌でした
そんなコトを考えたりして毎晩夜は明けていってました
一番の親近者である母の言葉すら
私を救えなかったのです
ただただケンカしようと
悲しい事が起きようと辛い災難がこようと
知人との決別が起きようと
私の側に居たのは今も母だけです
なんとなく伝わる
そんな中母が急に
「どこかドライブに連れて行って」
と人生で初めてこんなことを言ってきました
もしかして”心中?”とも思いました
車の中の荷物を散策して練炭やロープや刃物が無いかチェックしました
刃物は私のバッグにしか入ってませんでした
角島へ向かい
あの絶景を前にしても何も楽しめず
写真だけ撮って車内でこんな話をしました
母「私はあなたに早く幸せになって欲しい」
母「離婚したばってん だけんって不幸になったらいかん」
母「みんなが幸せにならなダメ」
母「○○ちゃん(前妻)も○ちゃんも○ちゃん(娘)も幸せにならないかん」
私は何も返事をしませんでした
頭重感MAX 思考もままならない中で
事故ったらマズい、、、と思いながら母の言葉だけが
なぜかずっと残っていたのを覚えています
角島の思い出は母のグっとくる言葉でした
「幸せにならないかん」
素敵な話でもなくこの言葉が私を直接的に変えたわけでもなく
相変わらずの日々は続いていましたが
この日を境に少しづつ
「死にたい」
と思う時間が短くなっていったように思います
「頑張って産んだっちぇけん 死なんどって」
と母が発してから何かスイッチが入ったように、、、
さよならデパスの管理人さんが
と書いた時のように
心から「死にたい」が薄れていきました
「どうでもよか」が「どうにかせな」に変わっていきました
そして1年が経ち
「どげんかなった」に変わりました
どうにかなりました
自死の想いから得たコト
減薬から数えて740日
断薬してから500日
たくさんのコトがありました
たった2年ですがかなりのモノを失いました
ここを訪れる人たちの中で
私程の人は居ないんじゃないでしょうか
とかく不幸自慢みたいになってしまいますが
何が言いたいか、、、
こんな私も今こうして生きてるというコト
そして
長かった離脱症状との戦いも
終わりが見えてきました
やめていたウォーキングを再開したのは去年の8月9日
ゲッソリとなってしまいみすぼらしい体型に、、、
イチさんのyoutubeを見て
筋トレを再開
現在ここまで太くなりました
歯の治療を再開(麻酔に負けるも現在ほぼ治療終わり)
バイク復活(賠償金があったけどどうにでもなれ!で買った)
これから数ヶ月、、、
ほんとうに色んなコトがありました
出来ないコトが出来るようになりました
なかなか達成出来ないけど
出来たコトも増えました
この夢を書いて1年
もうすぐ叶いそうなコトばっかりになりました
(そもそも一人で呑みにはあまり行かないけどw)
旅行にも行ける!
食欲も戻った!
楽しめるコトも増えた!
ゆっくりではあるけど
確実に出来るコトが増えてきた
今年の1月に書いた
やりたい事リスト
誰かの歌ではありませんが
時々心に描く未来予想図は
ほら 思ったとおりにかなえられていく
(後から気が付きましたが未来予想図ⅠⅡの歌詞が混ざってますw)
ゆ~~~~っくりではありますが
叶ってきています
ボルダリング
自分のYoutubeCH開設
病気になるまで
なってからもいい加減に適当に生きてきた私
ついこないだまで適当さも捨てて
死のうとしていました
今は丁寧に1つ1つ
1日1日を充実させて
不調と戦いながら
治療に専念しながら
そして母や支えになって頂いた方々に感謝しながら
やがてくる”完治”の日を待ちわびています
もうこのブログにも
サプリがどう、、、とか漢方がどう、、、とか
書く必要は無いのかもしれません
もがき苦しみ
泣きわめき
人の何倍も悲しみに落ち
闇に閉ざされて
自らの命と向き合ってからも
人は立ち上がれるという事実だけが
私が確実に皆様にお伝えできる事です
私の生き様そのものが
誰にでも効果のあるお薬だと
今は自負しています
これからの日々
自分のことで精一杯だったこの(減薬からの)2年、、、、
最近では
少し認知症気味の祖母を介護する母を支えたり
熊本への物資支援をしたり
更に復興のために、、、
おんせん県大分へ行ったり
(わかりにくいですが熊本の風俗店街です)
熊本へ行ったり
お金を使ってますが
それに伴い、、、
”旅行に行ける”までに回復した!という確信を手に入れてます
うまく書けませんが
1月1月ごとに
出来る事が増えていき
またその出来る事が当たり前になっていき
自信につながっていきます
1年前まではスーパー銭湯等のお風呂がダメになってましたが
今では
一人でお風呂に入れます(爆
減薬時からお風呂が怖くてスマホを持ち込むのも今年から辞めました
ビール1杯で動悸や不調が怖くて
このままお酒がダメになるのか、、、
と1年前まで思っていましたが
わずかな量ですが
焼酎の水割りを2~3杯飲めるようになりました
健康を失い
自信を失い
家族を失い
お金を失い
気力を失い
全てを失った時
母だけはそばに居てくれました
きっとたくさんの方が
自分の状態を誤解されて
家族と溝が出来たり
理解されないまま別れることになったり
そういう理不尽な状況があると思います
減薬断薬において
最期は「人」です
医者でも薬でもなく
人
です
私は自分の経験を活かして
減薬断薬の当事者でなく
その周囲の人々に対して何か出来ないか
今考えています
当人への勇気や情報も必要ですが
私のブログを読むべき一番の人は
心身症や精神病 様々な精神疾患
減薬断薬で苦しむ人の家族知人であると私は思っています
武田鉄矢ではありませんが
「“人”という字は、人と人が支え合ってできている」
これに尽きると思います
人が救えるのは本当に医者でも薬でもなく
「人」です
※でも武田鉄矢で本当に好きな言葉はこっち(笑
道はいくらでもある。
でもな、逃げ出せば、道は1つしかない。
逃げ道という道だ。
私は逃げずに減薬断薬の道を歩いています
ゴールはもうすぐでしょう
いずれにしても もう逃げません
自死は逃げ
逃げずに様々な道を行きましょう
必ず開けます
迷いも弱音もありましたが
今こうしてブログを書いています
それは去年ともその前とも違う
今の私です
たった1年で人はここまで変わります
また1年 また1年と時間を重ねて
新しい自分に私は会いに行きます
皆様に穏やかな日が早く訪れますように
youtubeの再生ありがとうございます
まもなく動画でのコンテンツ発信致します
牛歩でも前進 ゆっくりとゆっくりとです
必ず進んでいます
では次回の更新までお元気で